マティチョンは、「民主党の手の中の2枚の大きな旗は残り1枚になる」と題した評論記事を掲載しているところ、概要以下のとおり。
政治のイメージは、NCPO、民主党、タイ貢献党の3派による「三つ巴状況」の特徴が見られるが、最終的には3つから2つの陣営に絞られることになる。ピチャイ・ラッタクン(元民主党党首)は、各政党が協力して一致して、NCPOによる権力継承を阻止するべきと提案している。パリンヤー・テーワナルミットクン博士(タマサート大学副学長・1992年「暴虐の5月事件」当時の学生リーダー)他は、「軍政を受け入れる」か「軍政を受け入れない」かの2つの陣営分けをする評価をしている。同様にアロンコン・ポンラプット(元民主党副党首・元国家改革推進会議副議長)は、「NCPOを受け入れる」か「NCPOを受け入れない」かの2つであると見ている。現在、民主党は2枚の旗を掲げており、その1枚は、「タクシン・システム」への反対であり、もう1枚は、「外部首相」への反対である。他方で、タイ貢献党の方針はより明確である。
タイ貢献党と民主党の態度は異なっている。この相違は現在に限ったことではない。2001年1月と2005年2月の総選挙でのタイ愛国党の連続的な勝利による膨張を受け、2006年9月クーデター前の両党の態度は異なることになった。民主党は全力で運動に加わったわけではなかったが、協同戦線の同盟者として、ソンティ・リムトンクン(ASTVマネージャー社社主)が率いる「市民民主同盟」(PAD)から力を与えられて、タイ愛国党を打倒しようとしたのであり、その結果、2006年9月のクーデターを誘発させることに成功したのであった。
2006年クーデター後には、タイ愛国党は2007年5月に解党処分を下されたが、国民の力党に再結集し、2007年12月の総選挙に臨んだ。そして民主党は敗北し、民主党は「政府を超える」権力を有する軍と同盟を組み、PADの運動と連携調整しながら、2008年11月に国民の力党を解党処分に追い込んだ。その結果、民主党が主導する政権が結成されたのであった。民主党政権では、軍が政府を超える権力を有し、2010年4月~5月にかけての赤シャツの強制排除でも大きな役割を果たした。しかし、その後の2011年7月総選挙でタイ貢献党が勝利した。それ故に民主党が全力で支援するPDRCを生み出すことになったのであった。
現在、民主党は「反外部首相」と「反タクシン・システム」の2枚の旗を掲げているものの、最終的には旗は1枚に絞られることになる。2006年から2014年クーデターまで続く(軍との)関係は、最初の旗を変化させ、1枚の旗だけに絞らせることになる。残る旗は、「反タクシン・システム」の方である。つまり、それは民主党とNCPOが「同一」であることを意味している。