マティチョンは、「狂乱、混乱、人民党記念プレート:問題を起こしたのは誰だ」と題した評論記事を掲載しているところ概要以下のとおり。

 4月14日に報じられて以降、特に新聞紙上で「人民党立憲革命記念プレート」(注:ドゥシット区のラーマ5世騎馬像前の道路に立憲革命を記念して埋め込まれているプレート)に関して、その役割、意味合い、その意図することを報じようとしている。新聞各社は、他社の新聞にそれほど関心をもたせないようにするものであるが、「殴り合い」状態の報道合戦が1週間続いたが、人民党記念プレートに関する報道は、新聞紙上から消え去ったであろうか。その答えは、「否」であると断言できる。

 人民党記念プレートに関する報道が、徐々に拡大し、社会から関心を持たれている要因は、当然ながら、「シースワン・ジャンヤー氏」(注:憲法擁護協会事務局長で、本件に関する捜査請求を首相府に提出しに行って、軍施設に連行された人物)でも「ジャ・ニュウ」(注:新民主主義運動(NDM)の学生活動家)が騒いでいるからではない。それは、新たに埋め込まれたプレートの表面に記載されていることである。

 もし、新しいプレートが代わりに埋め込まれていなければ、それは徐々に沈静化していって仏暦2503年(西暦1960年)7月の状況と大差なかっであろう。その時点では、6月24日(注:立憲革命記念日)は、「ナショナルデー」から変更されるように閣議決定がされ、人民党記念プレートもラーマ5世騎馬像前の設置場所から外された。外されたプレートは、報道されることがないまま、国会事務局職員が運び、国会図書館に所蔵された。これは、2017年、今回のケースとは正反対であった。なぜなら、驚くべきことに、今回のケースで人民党記念プレートは、いつの間にかどうやってか消え去ってしまい、新たなプレートに入れ替わってしまっていたからである。そのために旧プレートと新プレートの比較に注目が集まるのである。

 重要なことは、政府の立場である。政府首脳からドゥシット区、芸術局までの誰もが人民党記念プレートがどこに消えたのか分からず、新しいプレートがどうやって代わり埋め込まれたのか答えられないのである。そして、首都警察本部から暴徒鎮圧保安部隊がプレートの周辺に配備され、誰も近づけないようになった。同時に新しいプレートの写真を撮影することを禁止する命令が出された。もし撮影しているのが見つかれば、写真の消去を命じられ、違犯すれば法律に則って処罰されることになる。これが人民党記念プレートとの大きな相違点である。この状況が人民党記念プレートの報道を収束させない理由である。

 「人民党記念プレート」が消失したとの報告があった4月14日以降、政府はこの事件に関する狂乱、混乱は、「外的要因」から生じたことではないと評価している。むしろ逆に政府による立場、意見表明という「内的要因」から生じたものであると見ている。問題の過熱化により、この状況への不信感、疑惑を高じさせている。