マティチョンは、「ウィタヤー・ゲオパラダイの役割に注目-国民投票モデル」と題した評論記事を掲載しているところ、概要以下のとおり。

 当初、セーリー・スワンナパーノン氏とワンチャイ・ソーンシリ氏の2人による下院議員選挙法案、政党法案への提案を聞いたとき、国家改革推進会議(NRSA)の国家改革委員会政治部門による「報告書」の形式で提起されたため、人々は、多少の「重み」を感じたが、それが「重要」であり、「真剣」であるとは考えなかった。セーリー氏とワンチャイ氏の2人の役割は、いつも、単なる「切り込み隊長」に過ぎないからである。彼らは、「道を拓くために石を敷き詰める」役割を引き受けている。そこにウィタヤー・ゲオパラダイ氏が「自分が内務省に選挙管理委員会の代わりに選挙の実施をやらせることを提案した」と自ら主張してきた。セーリー氏の立場は、委員会の委員長であるが、ウィッタヤー氏の発言により、一挙に提案の「重要性」と「真剣度」が高まったように見られた。

 ウィタヤー氏の政治基盤を絶対に忘れてはならない。同氏の政治活動は、1973年10月14日事件に遡り、1976年10月6日事件で影響を受けたものであり、従って、同氏の政界への入り方は、チャムニ・サクディセート氏、スッタム・セーンプラトゥム氏と似たような経歴である。同氏がナコンシタマラート県で民主党に加わったことは、河川が分岐するような、竹が枝分かれするようなものであった。スッタム氏がタイ愛国党に向かったのに対し、チャムニ氏とウィタヤー氏の2人は、民主党に向かったのであった。チャムニ氏が内務副大臣に就任したことで、かれらは、サナン・カジョンプラサート陸軍少将によって民主党に招かれたと誤解されることがあるが、実際のところは、サナン氏ではなく、ステープ・トゥアクスバンが挙手して、特別にチャムニ氏とウィタヤー氏を民主党内に招いたのであった。その後、ウィタヤー氏は、保健大臣に就任し、民主党下院議員会長にも就任した。PDRCが結成されたときには、ウィタヤー氏とステープ氏の関係はより切り離せない程近いものになっていた。ウィタヤー氏がNRSA議員に就任した背景も、ステープ氏によるものであった。

 ウィタヤー氏は、「内務省に選挙管理委員会の代わりに選挙を実施させ、NCPOに選挙管理の手伝いをさせるという2つの意見は、両方とも最初から自分が提案した内容である」と認めている。この提案は、同氏の「政治家」としての立場だけでなく、「選挙のエキスパート」としての立場を明確に反映させたものである。同氏は、2014年2月の総選挙妨害に加わった経験があり、その教訓として、「選挙管理委員会は脆弱であった」と結論づけているのである。また、「現在の内務省は、30年前とは大きく異なっている。省内の様々な組織は、既に分権化で外に移管されてしまった。だから県知事といえど、ほとんど誰にも命令を出来なくなっている」とみている。一方で、「秩序維持センター」が国民投票の際に果たした役割を敢えて無視しているのである。つまり、同氏の提案は、「国民投票の際のモデル」を応用させようとしていることに等しい。ウィタヤー氏からの提案がなされたということは、これは基本的にステープ氏から提案されたことに相当する。「国民投票モデル」を2017年総選挙にまで適用させようとする試みは、8月の憲法草案を可決させた成功経験を活かし、同じように進めようとしているという「シグナル」である。つまり、PDRCが「歌い」、NCPOが「踊る」のである。