トンナムのタイ政治経済研究室

タイ政治の解説、分析などを中心としたタイ研究の専門家によるブログです。

2018年04月

総選挙に向けた人事異動に関する評論記事

マティチョンは、「総選挙に向けて人員配置して隊列を整える:NCPOの最終年」と題した評論記事を掲載しているところ、概要以下のとおり。

 ソンクランに大量の水を掛け合っても、今年のソンクラン休暇前後は、総選挙に向けて準備中の人員配置の熱気を下げることはできなかった。(NCPOにとっての)最後の年に差し掛かるのであり、残りの僅か1分であろうと貴重な価値がある。

 ソンクラン休暇に入る直前にアサウィン・バンコク都知事は、「大物」(プーヤイ)に命じられた通りに、バンコク都幹部の人事異動を発表した。警察士官学校第31期の同級生であるチンタット警察少将・副都知事を顧問に異動させ、その後任として、サコンティー・パティヤクン元民主党下院議員兼元PDRC幹部を副都知事に任命した。そして同じ週に内閣は、ポラメティー国家社会経済開発庁(NESDB)長官を社会開発人間の安全保障省次官に異動させた。併せてソムチャイ財務次官をNESDB長官の後任に任命したが、外国滞在中であった同財務次官は(異動に不満を示し)同日中に辞任を表明した。この辞意表明の報道を受けて、プラユット首相は、険しい声で、「誰であろうと辞任するなら辞任すればいい」と強調した。

 ソンクラン休暇後最初の業務日に開催された閣議では、プラソン歳入局長をソムチャイ次官の後任の財務次官に昇格させただけでなく、エーカニティ公営企業政策委員会事務局長を歳入局長し、プラパート公債管理局長を公営企業政策委員会事務局長、プーミサック財務監理官を公債管理局長をそれぞれ任命した。それ以上のサプライズの人事は、トサポン公務セクター開発委員会事務局(OPDC)長を(ソムチャイ次官の辞任によって)空席となったNESDB長官に抜擢したことである。それに伴いパコン法制委員会事務局次長を後任のOPDC事務局長に任命した。このNESDB長官人事に関しては、この人物が担当した規則改正がビジネスセクターに利益を与え、「世界ビジネス利便性ランキング」でタイの地位を上昇させたため、その成果に政府内の「大物」が満足していたからと噂されている。また法律分野での大きな役割を果たしている「もう一人の大物」が業務を成功させるために後任の人物を求めたからでもある。一生涯法律の専門家で、経済学者でないままOPDC事務局長を務めた人物であろうと、政府が適切な人事だと判断すれば、NESDB長官に就任することができるのである。

 それ以外にも同日の閣議では、ソンタヤー・クンプルーム元観光スポーツ大臣・パランチョン党党首を首相顧問に任命し、その彼の弟のイティポン・クンプルーム元議員も観光スポーツ省政務官に任命した。関係者は口を揃えて、これらの人事は政治とは無関係であると説明しているものの、それを聞いた人々は、微笑みながら頷く。総選挙に突入する前の最後の年には、公務員であろうと政治職であろうと、どのような大小の「持ち駒」を動かすことも、全てが政治の采配次第なのである。各地を支配している元下院議員を糾合して、新党に迎え入れることも必要なことである。設定していた目標に到達し成果を示すことは更に必要なことである。従って、これまでの「人員配置・隊列整理」は、「前菜の皿」に過ぎず、今後間もなく「メインディッシュの皿」が続いて出てくることになる

新党の目標に関する評論記事

ポスト・トゥデイ・オンライン版は、「新党は高望みせず、控えめに国会で議席を得るために闘う」と題した評論記事を掲載しているところ、概要以下のとおり。

 タイ政治は不透明な状況が生じつつあることが明確となってきている。特に総選挙の実施に関しては、プラユット首相兼NCPO議長が2019年初旬には実施されると繰り返し強調していながらも、国家立法議会(NLA)は、選挙関連の憲法付属法案について、不安定性を生じさせると批判をしている。この少し前にNLAは、下院議員選挙法案と上院議員選出法案の最後の憲法付属2法案に関し、憲法違反に該当するとの疑念がありながらも、法案に同意した。しかし最終的にNLAは、圧力に耐えきれず憲法裁判所の判断を仰ぐ手続きを行い、憲法裁判所は違憲審査を受理する判断を下した。同法案が憲法裁判所を通過すれば良いのであるが、もし、そうならなければ、再び同法案を最初から起案し直す事態に戻らなければならなくなるかもしれない。そうなれば、少なくとも1~2年の時間を要することは確実であろう。4年間も総選挙の実施を待たされた上で、さらにこの状態が継続するとの懸念を生じさせている。

 総選挙の実施に関して不透明な状況下であるものの、他方で選挙管理委員会(EC)に対して、新党設立の意志表示をした個人やグループが多数存在している。ECによれば、4月初旬時点での98の政党設立希望があり、既にその一部は政党登録手続きの認証を得ており、認証を得た後で新党設立者達は、正式な政党とすべく法律の規定に従って手続きを実行していくことになる。98の新規政党数は、ある程度政治的な意図を反映したものである。なぜなら前回2011年の総選挙の際に選挙に臨んだのは、40の政党に過ぎなかった。要するに次回の総選挙の際には既存政党と新規政党を併せて、国民は100を超える政党から議員を選択することになる。数多くの新顔の人々が新党設立を希望しているのに、(今回初めて導入されることになる)「小選挙区比例代表連動制」について、なぜ数多くの関係者が一致して、「政党を弱体化させるシステムである」と批判しているのかという疑問が生じる。

 現在の選挙制度は、国民による小選挙区候補者に対する1票の投票のみにより小選挙区と比例代表を決定する仕組みである。小選挙区候補者への投票を全国合計して(各政党の獲得議席を決めた後に小選挙区で当選候補者で党外数が満たなかった場合に)各政党への比例代表議員を選出する。全ての得票数が比例代表制度と連動するのであれば、各政党は、最大の得票数を得るためにA級の人材を選挙区へ投入することになる。これまで従来政党が長らく支配している地域では、むしろゼロからスタートした新党を有利にさせることになる。同選挙制度は、新党に小選挙区で勝利する可能性を与えないにもかかわらず、小規模な新党に利益をもたらすのである。総選挙の地政学がかなり変化しようとしているのである。これまで、どの従来政党であろうと政党の支持率は、それほど高いものではなかった。それが新党にとって、比例代表制で従来政党と争う機会を与える隙間となるのである。要するに、新党は社会の潮流に乗って、小選挙区で勝利することを目指すのではなく、従来政党から得票を奪って、比例代表への得票を積み増すことを目指して、控えめに闘うのである。従って、新党が従来政党を対抗するため新顔であることをセールスポイントにすることは不思議なことではない。

 ECは、比例代表制度による1議員につき7万票の得票数になると分析している。この7万票という数字は、既存政党と闘うという潮流に乗って推進力を得れば、各新政党にとって到達がそれほど難しい数字ではない。従って、過去のように数少ない政党によって寡占されることはないのである。

民主党の立場に関する評論記事

マティチョンは、「民主党の手の中の2枚の大きな旗は残り1枚になる」と題した評論記事を掲載しているところ、概要以下のとおり。

 政治のイメージは、NCPO、民主党、タイ貢献党の3派による「三つ巴状況」の特徴が見られるが、最終的には3つから2つの陣営に絞られることになる。ピチャイ・ラッタクン(元民主党党首)は、各政党が協力して一致して、NCPOによる権力継承を阻止するべきと提案している。パリンヤー・テーワナルミットクン博士(タマサート大学副学長・1992年「暴虐の5月事件」当時の学生リーダー)他は、「軍政を受け入れる」か「軍政を受け入れない」かの2つの陣営分けをする評価をしている。同様にアロンコン・ポンラプット(元民主党副党首・元国家改革推進会議副議長)は、「NCPOを受け入れる」か「NCPOを受け入れない」かの2つであると見ている。現在、民主党は2枚の旗を掲げており、その1枚は、「タクシン・システム」への反対であり、もう1枚は、「外部首相」への反対である。他方で、タイ貢献党の方針はより明確である。

 タイ貢献党と民主党の態度は異なっている。この相違は現在に限ったことではない。2001年1月と2005年2月の総選挙でのタイ愛国党の連続的な勝利による膨張を受け、2006年9月クーデター前の両党の態度は異なることになった。民主党は全力で運動に加わったわけではなかったが、協同戦線の同盟者として、ソンティ・リムトンクン(ASTVマネージャー社社主)が率いる「市民民主同盟」(PAD)から力を与えられて、タイ愛国党を打倒しようとしたのであり、その結果、2006年9月のクーデターを誘発させることに成功したのであった。

 2006年クーデター後には、タイ愛国党は2007年5月に解党処分を下されたが、国民の力党に再結集し、2007年12月の総選挙に臨んだ。そして民主党は敗北し、民主党は「政府を超える」権力を有する軍と同盟を組み、PADの運動と連携調整しながら、2008年11月に国民の力党を解党処分に追い込んだ。その結果、民主党が主導する政権が結成されたのであった。民主党政権では、軍が政府を超える権力を有し、2010年4月~5月にかけての赤シャツの強制排除でも大きな役割を果たした。しかし、その後の2011年7月総選挙でタイ貢献党が勝利した。それ故に民主党が全力で支援するPDRCを生み出すことになったのであった。

 現在、民主党は「反外部首相」と「反タクシン・システム」の2枚の旗を掲げているものの、最終的には旗は1枚に絞られることになる。2006年から2014年クーデターまで続く(軍との)関係は、最初の旗を変化させ、1枚の旗だけに絞らせることになる。残る旗は、「反タクシン・システム」の方である。つまり、それは民主党とNCPOが「同一」であることを意味している。

軍政党に関する評論記事

マティチョンは、「拡散した結節点の政治:軍政党、NCPO政党の姿が鮮明に」と題した評論記事を掲載しているところ、概要以下のとおり。

 「NCPO政党」乃至は、「軍政党」の姿がどのようなものであるのか、徐々にその輪郭が明確に示され始めてきている。パイブーン・ニティタワン氏(注:上院40グループの反タクシン派政治家)の「改革国民(プラチャーチョン・パティループ)党」から始まり、続いてラチェン・トラクンヴィアン氏の「新選択(ターン・ルアックマイ)党」も結成された。2014年1月に「バンコク・シャットダウン」運動を実行し、2014年5月のクーデター発生を導いたPDRCグループが支える「大衆集合(ムアン・マハープラチャーチョン)党」は、未だに姿を示していないが、軍政党の「輪郭」(カオ)から「構造」(クローン)が見え始めてきた。「プラチャーラットの力党」、「タイ国民の力(パラン・チャートタイ)党」、「新法力(パランタムマイ)党」から読み取ることが出来ることは、何も複雑なことはないのである。スチャート・トンジャルーン氏(注:ソムキット副首相を中心とする新党結成の準備をしているとされる元内務副大臣)を迎え入れて、ソムサック・テープスティン氏(注:スコータイ周辺など下北部地域に影響力がある元副首相で中道主義党(当時)の実質的な指導者)の動きと調整をしているに過ぎない。

 プラユット首相をどこかの政党の顧問団長に迎え入れようという試みや、「プラチャーラット政策」から「タイ主義(タイニヨム)政策」を発案したソムキット副首相を迎え入れようという試みは、1991年2月クーデター後の「正義団結(サマキー・タム)党」の結成、2006年9月クーデター後の「4つのステップ」の内の一つとされた「国家貢献(プアペンディン)党」と「中道主義(マッチマーティパタイ)党」の結集よりも大幅な発展が見られる。しかし、正義団結党が辿った運命はいかがなものであっただろうか。スチャート・トンジャルーン氏ならはっきりと答えることが出来るであろう。そして、中道主義党がどのような運命を辿ったのか、「デーン姐御」(タクシン元首相の実妹で北部地域の実力者のヤオワパー女史の渾名)だけでなく、ソムサック・テープスティン氏でも答えられるであろう。

 プラチャーラットの力党、新法力党、タイ国民の力党の結成と改革国民党、新選択党、そして今後姿を見せる大衆集合党の結成を一緒に合わせ考えてみれば、プラユット首相、プラウィット副首相兼国防相の抱える問題とは、どのような政策を打ち出すべきか、ということではなく、(首相候補名簿に掲載させるのに)どこの政党を選ぶか決断することである。これは、政治学でも法学でも経済学でもなく、「魅力」(サネー)をどうマネージメントするかという問題である。仮にプラチャーラットの力党を選んでしまった場合には、(他のNCPO政党である)タイ国民の力党、新法力党、さらに、(親軍政党の)改革国民党、新選択党、大衆集合党を懸念させ、見捨てられたという感情を与える影響が出てしまう。

 総選挙の実施が2018年11月であろうと、2019年2月になろうと、その選挙の結論を考えることは難しいことではない。1992年3月の総選挙、2007年12月の総選挙、2011年7月の総選挙、これら過去の選挙結果から予想することが出来る。(反軍勢力又はタクシン派が結果的に勝利したという歴史的事実があるため)インラック前首相がほくそ笑んでいる姿がみえるかもしれない。

政治のデッドロック状況に関する評論記事

マティチョン版は、「アピシット民主党とタイ貢献党の態度から生じた政治のデッドロック」と題した評論記事を掲載しているところ、概要以下のとおり。

 NCPOとプラユット首相にとっての自信の源は、(任命制の)上院議員250人を掌中に収めていることであるが、それよりも自信を最も左右することになるのは下院議員(過半数の)251人(を確保出来るかどうか)である。それこそが政治を大きく行き詰まらせて(ロックして)いるのである。NCPOとプラユット首相にとって未だに明確でないことは、支配下にある251人の下院議員を確保できるかどうかである。それまでは、ひたすらと(選挙を)延期し、引き延ばし続けるのである。下院議員選挙法案を国家立法議会(NLA)の委員会及び本会議を通過させるべく努力したようにみえたが、他方で同法案を憲法裁判所に対する(違憲審査の)申し立てを促したようにも見える。251人の下院議員の確保の可否が重要な要因となっているのである。しかし、問題は、タイ貢献党、民主党以外どこの政党がそれほどの議席を獲得できるのかである。それは困難という域を超えてしまっている。

 民主党は、突然にも「党是」として、党首が誰であろうと党首を首相候補に提案しなければならないと表明した。これは、(民主党内のプラユット支持勢力への)「妨害」(カットアウト)を意図したものである。アピシット党首は、「プラユット首相の続投を支持するのであれば、離党して他のところ行き、民主党内に留まるべきでない」と主張している。感情を隠せないほどに怒りを募らせながら回答をするほどであった。こうやって民主党の「原理原則」を持ち出すことは、(民主党内のプラユット首相続投支持派の)「夢を潰す」ことである。民主党内の一部の勢力は、PDRCとの関係を有しているので、PDRCが以前に脅しをかけてきたのと同じように、脅迫じみた怒りを爆発させたのであった。

 ここで1978年(仏暦2521年)憲法草案にまで遡らなければならない。同憲法草案は、ミーチャイ・ルチュパンのような法律専門家の巨大な頭脳から「半分の民主主義」を生み出すために起案されたものであったが、憲法起草グループは、後に1997年憲法やタイ愛国党によって反映されることになる政治の現実を見過ごしていた。政治の現実は、2001年1月の総選挙から元に戻れないほど変わってしまった。2005年2月の総選挙でタイ愛国党が勝利したこと、2007年12月の総選挙で(後継の)国民の力党が勝利したこと、2011年7月の総選挙でタイ貢献党が勝利したことから確認されるように、基本的に政党政治は、二大政党制に収斂したのであるが、実際には大政党と呼べるものは、タイ愛国党、(その後継の)国民の力党、タイ貢献党しか存在しない。他方でその他の政党は民主党であっても、地域政党に過ぎず、さもなくば県レベルの政党に過ぎないのである。従って、タイ貢献党と対抗して下院の251議席を確保することは、非常に困難なことなのである。

 タイ貢献党が野党に留まり、「外部首相」(ナーヨックノーク)を拒絶することを表明したことで、政治のデッドロック状況に陥ってしまったのである。その結果、NCPOは身動きが出来なくなったのである。タイ貢献党と民主党を除外して、どこかの政党が100議席ないし200議席を有して、プラユット首相の続投を支持してくれることは困難なことである。以上のような理由により、総選挙実施のロードマップが不明確となっているのである。

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