トンナムのタイ政治経済研究室

タイ政治の解説、分析などを中心としたタイ研究の専門家によるブログです。

2017年09月

PADに関する評論記事

ポストトゥデイ・オンライン版は、「民主市民連合(PAD)の教訓、全ての色のデモ隊を凍結させる」と題した評論記事を掲載しているところ、概要以下のとおり。

 この10年間のタイ政治には、タクシン・シナワット元首相という政治的なインフルエンサーの他、タクシン氏に匹敵し、対抗できるPADという政治的インフルエンサー集団も存在していた。「タクシン派は、国会内の政治を支配し、PADは国会外の政治を支配している」と呼ぶことができただろう。

 もしPADの活動を人間のライフサイクルに例えれば、「最高地点」もあれば、「最低地点」もあることが分かる。PADの出発点は、2005年に(衛星放送ASTVの)テレビ番組「週刊タイ王国」において、タクシン政権の批判を開始したことに遡る。その批判の勢いは、シナワット家による(シンガポールのテマセク社へのシンコープ社の)株式売却騒動によって盛り上がり始め、同番組は、「PAD」という名称と共に、国会外の政治舞台に突き進んだ。PADは「黄シャツ」の着用を活動の象徴とし、ソンティ・リムトンクン氏(注:ASTVマネージャー社社主)の民間企業とチャムロン・シームアン陸軍少将、ピポップ・トンチャイなどの市民団体などの出自が異なる集団がタクシン政権を打倒するという唯一共通の目的のために一緒になって結成されたものである。2005年のPADの動きは、タクシン政権を一定程度追い込み、タクシン首相に2006年の解散総選挙実施を明言させるに至った。タクシン政権にとって総選挙の実施は危機からの脱出口になると思われていたが、結果はそのようにはならなかった。それどころかPADをさらに活気づけ、最終的には2006年9月19日にクーデターを導くことでタクシン政権を崩壊させた。その後の事態は、PADが望むままに進展し、社会からは、国会外のインフルエンサーとして注目され続けることになった。

 PADは、2008年にサマック・スントラウェート政権及びソムチャイ・ウォンサワット政権を打倒するために再び大規模集会を実施した。その際、PADはこれまでの国会外政治勢力のどの勢力も使用したことのない闘争方法を実践した。例えば、首相府をデモ隊の本拠地として占拠したこと、ドンムアン空港とスワンナプーム空港という両方の国際空港でデモを実施したことである。そうしたデモを193日間、つまり6ヶ月に亘って継続し、その年内に国民の力党(注:原文ではタイ貢献党)政権を崩壊させ、民主党政権を樹立させるに至った。

 現在までの約10年に亘って続いてきたPADの歴史に残る政治闘争の成果が、逆にPADの幹部達を今日のように追い込ませることになるとは誰も想像していなかった。最高裁判所は、空港占拠事件の責任として、PAD幹部13人に対し、タイ空港公団(AOT)に5億2200万バーツの損害賠償を支払うことを命じる判決を下した。平均すれば、一人当たり4000万バーツの賠償額である。この訴訟に関し、これまでPAD幹部13人は、集会が空港閉鎖の原因ではないと主張し、裁判所で争ってきた。PADによれば、集会が実施されても人々は通常通りに空港を利用することが出来ており、AOT役員が空港の閉鎖を決断したに過ぎないため、自らには責任はないと主張してきた。しかし、結果としてPADの主張は最高裁に聞き入れられることはなかった。今後は関係する政府機関が判決に従って、被告達から賠償のための資産を没収する手続きを進めることになる。その結果、一部のPAD幹部は破産を余儀なくされる可能性もある。

 こうしてPADの政治の幕は完全に下ろされることになったのである。ただし、PADのエピローグは、他の色を纏った多くの国会外の政治集団に対して「ドミノ効果」を与えることにもなり、彼らもこの先の長い期間、路上の政治に戻ってくることはないかもしれない。以前のタイには、現在のように集会を厳しく規制するルールが存在しなかったため、数多くの色を纏った政治デモ隊が反対勢力を追及する活動を可能にさせていたという面もあった。しかし、現在の憲法やその下位の法を含む法体系の下では、以前のような思いのままにデモを実施することは難しくなっている。特に現在では、「2015年公共集会法」が施行されており、警察に集会を管理する権限を付与している。だが、それ以上に刑事罰を下され、民事賠償責任を下されることの方がデモの実施の重大な障害となるだろう。それにより、誰もが路上での反政府政治集会の開催を躊躇することになる。このまま進んで集会を実施すれば、禁固刑を下されること、損害賠償の支払いに怯えなければならない。しかし後退すれば、支持者である大衆を失うことになる。今回、PADが直面した困難は、他の国会外の政治集団への警告と教訓となり、今後の運動を困難にさせることになる。そして市民政治運動を解消に導くかもしれない。もし市民政治運動が強固でなくなったら、それは現政権への利益となり、さらに将来には選挙で選ばれた政権も市民政治運動の煩わしさから解放されることになるだろう。

ステープ新党構想に関する評論記事

マティチョンは、「ステープ・トゥアクスバンによる政党結成構想のやわらかな合図」と題した評論記事を掲載しているところ、概要以下のとおり。

 ステープ・トゥアクスバンPDRC事務局長による突然の「必要がある場合には、(自らの)政党を結成する」との力強い意見は激震を与えるものであった。なぜならステープ氏は、「神通力」(リット)を持つ人物であるからである。単に以前に民主党の幹事長を経験したというだけではなく、自らが党首を首相就任にまで導いた「名幹事長」であったのである。このような芸当が出来る人物として、3人の名前を挙げることができるだろう。それは、タイ国民党幹事長時代の「バンハーン・シラパアーチャー」氏であり、それは、民主党幹事長時代の「サナン・カジョンプラサート陸軍少将」であり、そして、タイ国民党時代の「サノ・ティアントーン」氏である。それに対して、ステープ氏の神通力は、敵対勢力に激震を与えるのではなく、民主党を激震させるのである。

 ひとまずアピシット・ウェーチャチワ民主党党首からの反応があったものの、まだハッキリとしたものではない。それは、ステープ氏の態度もハッキリとしたものではないからであろう。アピシット党首は、以下のように述べている。「現在のところ、民主党内には、誰も民主党から離れようという意志を表明した人物はいない。PDRCの多くの幹部でさえ民主党と一緒にやっていくことを確認している」。そして以下の言葉は、アピシット党首の懸念が反映されている。「懸念している。なぜなら地盤が重なるからである。もしステープ氏が新党を結成するのであれば、どのような目的で結成するのか聞かなければならない」。ここでの「地盤が重なる」との言葉こそが問題の本質なのである。もしステープ氏が民主党から独立して新党を結成すれば、バンコク都内の民主党の地盤を争って分け合うことになるだけでなく、少なくない南部の地盤を失うことにもなりかねない。それが政治上のセンシティブな問題である。

 ステープ氏による新党設立の動きは、タイ貢献党でもなく、タイ国民発展党でもなく、タイ名誉党でもなく、チョンブリの力党などの他の政党ではなく、民主党こそを大きく激震させるのである。タイ貢献党の地盤は北部と東北部であり、タイ国民発展党の地盤は中部であり、タイ名誉党の地盤は東北部、中部の一部の県だけであり、チョンブリの力党の地盤はチョンブリ県だけである。ステープ氏の動きには、神通力があるといっても、民主党に対する神通力なのである。アピシット民主党党首の態度は、慌てる素振りを見せないように、哲学者のような冷静さを保つように特別に注意を払って、緩やかにステープ氏の本気度を測っている様子であった。

 ステープ氏の態度は、(新党結成の)アピシット党首と民主党に対し、まるで「警告の合図」を送っているようであった。つまり、NCPOと一緒に、政権を支持していく意図と決意を伝えようとしていたのである。そして、プラユット首相の続投を支えることを促していたのである。これに対し、アピシット党首は、この合図を受け入れるのか否か、それが問題である。

挙国一致内閣提案に関する評論記事

ポストトゥデイ・オンライン版は、ピチャイ元民主党党首による挙国一致内閣提案について評論記事を掲載しているところ、概要以下のとおり。

 「挙国一致内閣」は、再び政治の流行語として帰ってきた。ピチャイ・ラッタクン元民主党党首は、憲法付属法の審議に躓き、ロードマップに沿って総選挙が実施されることは難しいので、国民和解のために「挙国一致内閣」を樹立すべきとの意見表明をした。「教えを授けようというのではないが、真実を語ろう。国家の希望には、それほど難しくない別の選択肢もある。それは、次の政府は、美しい形態にすることである。つまり、タイ貢献党、民主党、タイ名誉党が軍に協力し、挙国一致内閣を樹立することである」とピチャイ元党首は提案した。

 挙国一致内閣を樹立するという考えは、2006年クーデターが発生する以前に政治対立が深刻化して以降、これまでにも多くの関係者が理論として提案してきた。挙国一致内閣の構造はそれほど複雑なものではなく、「中立の人物」を首相に就任させ、野党が存在しない下院が立法府の役割を果たすというだけに過ぎない。しかし、この理論をこれまでに実践した経験はない。なぜなら、選挙を経た立場である政治家からの反発に晒されるからである。議会に野党が存在しないという方針は、民主主義の原則を蔑ろにするものであると見ているからである。だが実際のところ、政治家が反発する理由は、自身の政治的権威を他の人物に譲り渡したくないからともいえる。

 これまでの10年余、タイは2回のクーデターと総選挙を経た政権の樹立とその崩壊を交互に繰り返し、「色シャツ」別の大規模な政治集会を3,4回招き、国民の生命と財産が失われてきた。通常の政治メカニズムによって問題を解決できない場合、「挙国一致内閣」の言説が巻き起こり、NCPO時代にも再び巻き起こったのである。NCPO時代は、挙国一致内閣の樹立に向けて最も努力をしている時代である。この動きは、2015年に遡り、アネーク・ラオタマタットが率いる国家改革会議(NRC)の議員達がNRCの議場にて、新憲法施行後の総選挙後に生じるであろう社会対立を解消させるためのメカニズムとして提案したことがあった。NRCは、この提案を新憲法に関する国民投票の追加質問とすることを提起していた。「新憲法下での総選挙の実施後に生じる可能性のある対立を防止し、もしくは対立を解消するメカニズムとして、憲法施行後の少なくとも4年間、改革のために、下院議員定数の5分の4の支持を受ける国民和解内閣を樹立することにあなたは賛成しますか」という追加質問であった。しかし、これはNRCで憲法草案が反対多数で否決されたことによって、消えてしまった。

 旧憲法草案否決後のミーチャイ・ルチュパン新憲法起草委員会(CDC)委員長は、憲法草案を起案し、国民投票を実施して、憲法草案に関して重要な変更を実施して、挙国一致内閣を導くための2つの要件を盛り込んだ。第1に、「選挙区比例代表連動型」選挙制度の導入である。同制度では、選挙区、比例代表合計500人の下院議員の選出を選挙区での1票に基づいて決定するものであり、過去の議会のように、特定の政党が過半数を占めることを絶対に出来ないようにさせるものである。(注:実際は、単独政権が下院過半数を占めることは制度的には可能)第2に、5年間に限り、上院議員が首相選出の投票に加わることである。この制度は、憲法草案を巡る国民投票での追加質問に盛り込まれ、国民の多数が賛成した結果を受けて導入されたものであり、議会が各党が選挙管理委員会(EC)に事前に提出している首相候補名簿に記載されていない非議員の外部の人間を首相に選出できるように定めている。

 上記の2つの制度により、新政権の樹立には、上院の声が反映されることになるため、政党の影響力だけで行うことは困難になった。各政党が提案した首相候補リストが上院に気に入られなければ潰されてしまうことになると考えられている。従って、将来の政権をスムーズに成立させるために、「挙国一致内閣」の言説が重要になっているのである。しかしながら、そのような政権が樹立できるということは、あくまでも理論上に過ぎない。実際のところ、政治家が自らの政党所属ではない中立の人物を首相に選出することに賛同することは困難である。中立の人物の名前が、「プラユット・チャンオーチャー陸軍大将」、現首相兼NCPO議長であれば、なおさらのことである。中立の人物がプラユット首相でなく、各政党がなんとか容認できるような人物であるか、各政党が賛同するような重要な条件が整えば、例え民主主義の原則の一部を失ったとしても、国民和解のために、中立首相が5年間国家運営を担うことを認めることもあるだろう。

インラック逃亡に関する評論記事

マティチョン版は、インラック前首相の逃亡に関する評論記事を掲載しているところ、概要以下のとおり。

 インラック前首相の逃亡の影響としてタイ貢献党、赤シャツの内部崩壊を導くとの評価がある。崩壊とは、2006年クーデター後に革命団が用意した4段階の計画に従って、タイ愛国党が分裂して国家貢献(プアペンディン)党、中道主義(マッチマーティパタイ)党が誕生したこと、(タイ愛国党の後継の)国民の力党からタイ名誉(プームチャイタイ)党が分裂して誕生したことと同じように再び分裂することである。もしNCPOがそのことに自信があるのであれば、直ちに2つの疑問が沸き上がってくる。それは、第1に、何故未だ政党の政治活動を解禁しないのか、第2に、何故未だに選挙日程の確定がなされないのかである。政党の政治活動禁止処分を解除してもタイ貢献党が毒にならないのであれば、解禁しない理由は何であるのか。選挙期間に突入してもタイ貢献党に勢いはなく、勝利の見込みがないのであれば、何故選挙日程を確定しないのであろうか。

 現在の状況を見れば、NCPOが政党に通常の政治活動を出来るように活動禁止処分を解除する気配はないことは明白である。政党役員会も開催できそうにない。それは民主党、タイ国民発展党、タイ名誉党、国家発展党にも当てはまり、同じ運命を辿っている。選挙の実施は、「ロードマップの通りに実施する」と語られるだけである。しかし実際のところ、二ピット・インタラソムバット民主党副党首が確信して指摘するように、2018年中に実施されるのか、2019年に延期されるのか、誰も確約をしないのであり、それが「選挙は実施されない」との気分を生じさせている。選挙の実施は、彼らに罰を与えるようなものである。その通りに選挙が実施されなければ、NCPOは、引き続き権力の座に留まり続けられることを意味する。

 インラック前首相の逃亡は、タイ貢献党の崩壊を導くことになるとの確信はあるものの、NCPOは、未だに選挙の自信を持てないでいる。少なくとも民主党が勝利できるとは信じていないし、タイ名誉党が民主党と調整して連立し、政治を運営できるとは信じていないのである。なぜなら依然としてタイ貢献党に勝機があるとみているからである。仮に依然としてタイ貢献党に勝機があるのであれば、いつ選挙は実施できるのであろうか。選挙が実施されれば、タイ貢献党に政治的な正統性を与えてしまうことになる。「選挙とは、パントゥラット(伝説上の鬼女)の金の泉」である。振り返ってみれば、2001年1月、2005年2月、2007年12月、2011年7月の全ての選挙は、全てタイ愛国党系の完全勝利に終わっている。要するに選挙の実施は、タイ貢献党にパントゥラットの金の泉を与え、即座に正統性を付与することになるのである。これがタイ社会の深層での恐怖である。

 インラック前首相の逃亡の当初は、反インラック派を大いに活気づけることになったが、しかし数日間だけでその活気は消えて静まりかえってしまった。その静けさの理由は、インラック前首相の逃亡は、準備もなく慌てて逃げ出したのではなく、戦略的に後退するという前もって準備してあった戦術を実行しただけに過ぎないとの疑念が生じているからである。

タクシンとNCPOに関する評論記事

マネージャー・オンライン版は、タクシン元首相とNCPOに関する評論記事を掲載しているところ、概要以下のとおり。

 「蟹ちゃん」ことインラック・シナワット前首相の逃亡にもかかわらず、軍事政権は全く困った素振りを見せていない。その様子から理論的に考えると、「NCPO内のボス」と「タクシン体制のボス」との「ボス同士の間での交渉」があり、「蟹ちゃん」を逃亡させることに合意が整っていたことが想定できる。だが、それは両者間の合意事項パッケージの中では、小さな事柄に過ぎない。

 ボス同士は、次回の総選挙までの長期的な先行きを見ているのである。つまり「NCPO内のボス」は、「虎の背中」から下りるつもりがなく、憲法と憲法付属法によって規定されたメカニズム、関連する多様な委員会を通じて、今後も権力を握り続けるつもりでいることが明確となった。しかし、「軍人貴族」(クンタハーン)として安定的に権力の座に居座り続けるためには、まだパズルの重要な一片が欠けたままとなっている。それは、選挙制度を通じて選出される「下院議員」の存在である。「NCPO党」は、任命制の上院議員250人を基盤としているものの、それが重要な役割を担うのは、下院と一緒に投票権を有する「非議員首相」選出の際に過ぎず、それ以外の法案審議や各種調査には、下院を通過しなければならない。以前には、「軍人政党」を設立し、タイ貢献党やその他の政党と汚職・不正競争をしようと目論んでいたが、選挙の戦場に下りてくる候補者が少ない場合には、軍人政党は上手く機能しないという教訓をこれまでに得てきた。権力者は、敵に面と向かって殺し合いの闘いを挑むよりは、異なる最終回答として、大物同士で利益を分配するように合意することを選択したのである。

 「軍人貴族とタクシン体制間」の「手合わせ」(テムーカン)は、実際に起こるとは信じられないだろうが、両者の関係を過去に遡って深く慎重に検討すれば見えてくることがある。「ポムの兄貴」ことプラウィット陸軍大将は、2001年以降のタクシン政権下で出世を続け、最終的にはタクシンの後押しを受けて、2004年に陸軍司令官に就任したのである。また同様に「東部の虎」派閥の副将、「ビック・ポック」ことアヌポン陸軍大将は、タクシンとは予科士官学校10期生の同期の近い関係にあり、これまで両者が直接的な対立関係になったことはない。その次の予科士官学校12期生の「ビック・トゥー」ことプラユット陸軍大将は、タクシンの予科士官学校時代の後輩であり、「メオ(タクシン)兄貴を凄く信頼している」と過去に発言したこともあり、インラック政権時には、「イ」首相の側で働いていたこともある。つまり、「ポム(プラウィット)~メオ(タクシン)~ポック(アヌポン)~プー(インラック)」は全て緊密に繋がっているのである。

 「ウィン・ウィン」でお互いの利益になる関係を構築すれば、闘う必要などなく、一緒に幸福に過ごすことが出来る。またプラウィット副首相兼国防大臣の実弟のパチャラワート警察大将、通称「ビッグ・ポッド」の2008年10月7日、黄シャツデモ隊強制排除事件の責任追及を巡る裁判の苦難は、タクシンの義弟であるソムチャイ・ウォンサワット元首相と分かち合った。国家汚職防止委員会(NACC)委員長のワチャラポン警察大将は、パチャラワート警察大将と親しく、意図的にパチャラワート警察大将とソムチャイ元首相の両名を最高裁大法廷への上告の対象から外した。これは「ウォンスワン家体制」と「シナワット家体制」が親しい関係であることを示す「領収書」であり、軍事独裁と資本家独裁が混合された「チン(ナワット)・(ウォン)スワン体制」の構築を準備しているのである。耳にするだけでも鳥肌が立つ程の恐怖である。

 ところで、恋愛関係の男女間では、「女性の言う『NO』の意味は、『YES』であり、男性の言う『NO』の意味は、実際に『NO』である」としばしば語られる。この言葉は、政治にも当てはまっている。「イン・ノイ」ことクンイン・スダラットの事例である。スダラットは、タイ貢献党幹部であり、同党の次期党首候補として名前が挙がっているが、記者に党首就任の噂にについて質問されると、「党内には既に党首がいる」と答え、メディアは、「スダラットはタイ貢献党党首就任を否定」と報じている。しかし、これは、「裏側」での動きと食い違っている。関係者は皆が揃って、スダラットが常にタイ貢献党を率いたいと主張していると語っている。

 実際のところ、タクシン義弟のソムチャイ元首相が黄シャツ強制排除に関する最高裁裁判で無罪となった際には、「ソ」元首相の夫人であり、「ワンブアバーン派の女領袖」であるヤオワパー・ウォンサワットを支持する人々から「ソ」元首相の党首就任待望論が巻き起こったが、コメ担保融資制度の不正を巡る裁判において、「ジェー・デーン(ヤオワパー)」の妹である「蟹ちゃん(インラック)」の逃亡との自らの子飼いであるブンソン元商務相の40年を超える禁固刑の判決受け、「ジェーデーン」の党内での信頼性を著しく低下させることになった。そのような背景があり、「イン・ノイ(スダラット)」の勢いが強まっている。「チン・スワン体制」の構築にとって適切な候補であろう。「蟹ちゃん」の逃亡を通じて「軍人貴族」と「タクシン体制」が和解を勧めている状況下であり、次はタクシンの息子の「オーク」ことパートーンテー・シナワットが関与したクルンタイ銀行不正融資事件への追及を無期限で延期にすることが控えていることから、「ポム兄貴(プラウィット)」と親しい関係にある「イン・ノイ」は、それを受けて勢いを得ているのである。

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